〇登壇者プロフィール
Jacob Robert Steeves
Bittensor共同創業者。ブロックチェーン上に構築された分散型機械学習ネットワークのオープンソース・プロトコルを推進している。サイモンフレーザー大学で数学とコンピュータサイエンスを専攻し、2011年から2015年にかけて応用科学学士(BASc)を取得。大企業主導のAIではなく、ビットコインのように「オープンで透明、制御困難なAI」を目指し、開発者・研究者・利用者が協働できる仕組みを構築している。
Ben Schiller(Moderator)
Miden シニアアドバイザー。メディア企業 Inferno Works の創業者であり、CoinDesk のマネージングエディターや BREAKER 編集長を歴任。12年以上にわたり暗号資産分野を取材してきたジャーナリスト。
- ファイヤーサイドチャット:Bittensor共同創業者 ジェイコブ・ロバート・スティーブス(Fireside: Bittensor's Jacob Steeves)
- テンソルとは何か——AI×クリプトの“合成”としてのインセンティブ層
- なぜビットコインの発想がヒントになるのか——「CEO不在の超効率ネットワーク」
- “誤差伝搬”から“報酬伝搬”へ——ML的最適化を人類の開発活動に広げる
- オープンソース×経済設計——“善意頼み”を超えるために
- 具体像:エージェント競技と“最適が生まれ続ける設計”
- 「分散化」はバズワードか——思想と現実のバランス
- トークン設計と“ハルビング”——価格ではなく有用性のメトリクスへ
- サブネットの統合と「積み木」的な拡張性——“安価な計算×高性能エージェント”の合奏
- 参加するには——3つの入り口(テク、企画、マーケット)
- “インセンティブのためのインセンティブ”——メタ市場としてのテンソル
- ガバナンスと評価の要諦——“計測”がすべてを変える
- 倫理と透明性——“見える化”が信頼をつくる
- 産業応用の射程——ヘルスケア、科学、宇宙、量子へ
- 実務者向けチェックリスト——明日から使える導入・運営の勘所
- 誰が得をするのか——人材・企業・社会それぞれのメリット
- よくある誤解と反論への答え
- ロードマップの核心——“つながるサブネット”がプロダクトを作る
- まとめ——“名前のための技術”から“回すためのインフラ”へ
ファイヤーサイドチャット:Bittensor共同創業者 ジェイコブ・ロバート・スティーブス(Fireside: Bittensor’s Jacob Steeves)
生成AIの進化は止まりません。しかしその裏側では、「誰が、どのように」学習・推論・データ収集・評価を担うのかという運用面とインセンティブ設計が、依然として最大のボトルネックとなっています。
今回ご紹介するのは、登壇者の発言録をベースに再構成した、Bittensor(以下、テンソル)の思想と仕組み、実績、参加方法、そして今後のロードマップをまとめた解説記事です。要点はシンプルです。
テンソルは「AIのためのブロックチェーン」ではなく、「機械学習(ML)のインセンティブ層を誰もが設計・運用できるツールキットかつネットワーク」である、ということです。これは、暗号資産が得意としてきた「価値配分の自動化」を、AIの開発・運用プロセス全体に適用しようとする試みだといえます。
テンソルとは何か——AI×クリプトの“合成”としてのインセンティブ層
登壇者はテンソルを次のように位置づけています。
・誤解されやすい説明:「テンソルはAIのためのインセンティブ層」
・より正確な説明:「インセンティブ層そのものに機械学習を適用する仕組み」
すなわち、AIの上にクリプトを付加するのではなく、クリプトシステムそのものにAI的な考え方(ニューラルネット、強化学習、遺伝的アルゴリズムなど)を組み込むという発想です。
テンソルは「巨大なAIモデル」でも「単一の推論API」でもありません。“機械学習インセンティブ層を実装するブロックチェーン/ツールキット”であり、開発者はその上で「学習」「推論」「データ収集」「エージェント運用」「コード生成」など多様なタスクに対して、報酬の設計と評価基準を明示的にプログラム可能とします。
この設計により、テンソルは本質的に「何でも報酬化できるレイヤー」となります。現在は偶然にも、機械知能(モデル学習・推論・エージェントなど)への適用が最も注目を集めていますが、根底にある思想は一貫して「価値(成果)を定量化し、自律的に配分する」という普遍的なメカニズムにあります。
なぜビットコインの発想がヒントになるのか——「CEO不在の超効率ネットワーク」
テンソルの着想の背景には、ビットコインのネットワーク構造があります。ビットコインにはCEOや中央運営組織が存在せず、世界中の参加者が自律的にセキュリティ(ハッシュ計算)を提供し、その対価を自動的に受け取ります。“価値を生む計算作業”をグローバルに分散し、最も効率的な参加者に報いるというメカニズムが、ネットワーク全体の堅牢性と費用対効果を高めてきました。
テンソルは、この「採掘(マイニング)」という原始的インセンティブを、AIに不可欠な計算(学習・推論・最適化・評価など)へと置き換える試みです。言い換えれば、「セキュリティ確保のための計算」を「知能や品質向上のための計算」へと転用し、最適な成果を出した貢献者に自動的に報酬を配分する仕組みを実現しようとしています。
“誤差伝搬”から“報酬伝搬”へ——ML的最適化を人類の開発活動に広げる
機械学習では、誤差(loss)を逆伝播させてパラメータを更新し、モデル性能を最適化します。テンソルはこの発想を人間の創造的行為(エンジニアリング全般)に拡張します。具体的には、次のプロセスを通じて実現されます。
1.評価基準(ベンチマーク)を厳密に定義する
2.世界中の貢献者(開発者・研究者・運用者)が成果物(エージェント、モデル、パイプライン、ツールコードなど)を提出する
3.評価器が客観的にスコアリングする
4.スコアに比例して報酬を自動配分する
この「報酬の逆伝播」によって、グローバルなオープン・コンペティションが常時稼働し、“最も有用な貢献”が最速で増殖する環境が生まれます。そこでは、HR面談も職歴審査も地理的制約も不要です。成果だけが評価基準となり、最適な人材が「12秒ごとに採用される」ような世界が現実味を帯びてきます。
オープンソース×経済設計——“善意頼み”を超えるために
オープンソースは透明性・再利用性・学習可能性に優れています。しかし同時に、持続的な資金インセンティブを設計しにくいという弱点がありました。テンソルはこの課題に対してトークン経済を組み合わせ、次の3点を両立させます。
1.透明性:コードは見える、検証できる、改善できる
2.インセンティブ:改善・最適化・メンテナンスに継続的な報酬が支払われる
3.スケール:世界規模の協働と競争を同時に成立させる
実際、登壇者は SWE-bench(ソフトウェア工学系の課題ベンチマーク) のような難題において、オープンソースのエージェントが短期間で急成長し、クローズドな先端モデルに匹敵し、用途によっては凌駕する成果を出しつつあることを紹介しました。
そのポイントは、
・「最適化ループの高速化」
・「多様な改善の並列探索」
にあります。つまり、オープンソースと報酬設計の組み合わせによって、従来の閉鎖的な研究体制に比べて、異次元の学習速度が発揮され始めているのです。
具体像:エージェント競技と“最適が生まれ続ける設計”
テンソル上では、たとえばコード修正に特化したエージェントが共通ベンチマークを用いて競い合います。参加者は公開リポジトリ内の単一ファイル(約7,000行のロジック)の一部を改良するだけでも構いません。
ネットワークは提出物を自動で評価し、その時点で最良のエージェントに報酬を支払います。初期段階では提出がまばらでも、最終局面に近づくと「10分おきに新記録が生まれ、1時間ごとに最上位が更新される」ほど活況化します。
こうして“最適解の芽”が次々と試され、良いものほど残り続けるダイナミクスが生まれます。そのプロセスは、進化的アルゴリズムに似た「カンブリア爆発」を想起させます。つまり、かつて生物進化の歴史で多様な種が一気に出現したように、テンソル上でも多様な解法やアプローチが同時多発的に生まれ、競い合いながら最適化が加速するのです。
「分散化」はバズワードか——思想と現実のバランス
暗号資産の文脈では「分散化」「民主化」といった言葉がしばしばバズワード化します。しかし登壇者は、オープンオーナーシップ、透明性、検証可能性といった原則が持つ倫理的価値を強調しました。
特にAIは、電力・設備・半導体などにおいて巨額の資本と継続的な支出を必要とします。だからこそ、経済層(インセンティブ設計)を最初から織り込む必要があると登壇者は指摘します。Linux型の“非営利の善意”だけでは支えきれない領域が存在する――この現実認識こそが重要だというのです。
トークン設計と“ハルビング”——価格ではなく有用性のメトリクスへ
トークンの半減期(ハルビング)といったイベントは話題になりやすいものの、登壇者は価格イベントよりも「プロダクトの有用性メトリクス」を重視すると明言しています。
具体的には、以下のような指標が重要視されます。
・特定ベンチマークにおける性能上位
・推論速度の高速化やコストの劇的低減
・ストレージやデータ品質の向上
・ユーザーが“本当に使う”機能の改善速度
これら、実際の価値提供を示す指標こそが中長期的な持続性を決定づけるといいます。トークンはあくまで価値配分の媒体にすぎず、価値創出の源泉は「性能と体験」にあるという姿勢が強調されました。
サブネットの統合と「積み木」的な拡張性——“安価な計算×高性能エージェント”の合奏
テンソルのロードマップでは、多様なサブネット(特化領域ごとのインセンティブ市場)を統合的に連携させる構想が進められています。
具体的な例としては、
・あるサブネットが 汎用の計算資源(推論・前処理・ベクトルDBなど)を供給する
・別のサブネットが エージェント戦略の最適化に特化する
・さらに別のサブネットが データ評価・クレンジングを担う
といった形で、それぞれのサブネットは「レゴブロック」のように機能単位で組み合わせ可能です。バラバラのブロックでは単体では限定的な機能しか持ちませんが、組み合わせることで一つの強力なシステムが構築されます。
その結果、高性能なエージェントが超低コストの計算資源上で動作し、商用プロダクト級の体験がオープン環境で実現するようになります。
登壇者はこの点について、「大手クラウドの数百分の一コストで同等以上の価値を提供できる」という定量感を示し、分散ネットワークの効率性が現実のプロダクト価値に直結しはじめていると指摘しました。
参加するには——3つの入り口(テク、企画、マーケット)
テンソルはパーミッションレス(許可不要)を掲げており、誰でも参加できます。大きく分けて3つの入り口があります。
① テクニカル参加(“マイナー”/ビルダー)
既存サブネットの課題(最適化対象)に挑戦します。
・例:気候科学者が短期天気予測モデルを改良、LLMエンジニアがコード修正エージェントを高速化、データサイエンティストが評価器を頑健化、など。
・ベンチマークで勝てば報酬が得られます。
・場所を選ばず、“成果ベースの報酬”で生活できる可能性があります。
② サブネット設計(主催者/起業家)
新しい評価関数と報酬メカニズムを設計し、自分の領域に最適化された“インセンティブ市場”を構築します。
・事業として育成しやすく、“許可不要のベンチャーキャピタル”に近い仕組みです。
・ネットワークからの報酬による早期支援を得ながらスケールを狙えます。
③ マーケット参加(トレーダー)
サブネットやプロジェクトの将来価値を分析し、トークンを通じてエコシステムの重み付けに参加します。
資本配分の最適化が、そのまま技術進歩の方向付けとなります。
“インセンティブのためのインセンティブ”——メタ市場としてのテンソル
興味深いのは、テンソルそのものが“メタな市場”として機能している点です。各サブネットが独自のインセンティブ層を稼働させる一方で、ネットワーク全体もまた、それらサブネットを評価し、資本配分を行います。
この二重構造によって、
1.価値の薄い取り組みは自然に淘汰される
2.価値の厚い取り組みはネットワーク資本(関心・流動性・報酬)を集め、急拡大する
というダイナミクスが働きます。
結果として、資本市場と技術市場のリアルタイム結合が実現し、“顧客価値に近いプロジェクトほど資本が流れる”構造が強化されるのです。これは従来のVC(ベンチャーキャピタル)モデルを補完し、場合によっては一部を置換する可能性を示しています。
ガバナンスと評価の要諦——“計測”がすべてを変える
テンソルの成功可否は、評価の設計にかかっています。適切なベンチマーク、妥当なスコアリング、スパムやチートへの耐性、データの健全性――これらをいかに厳密に計測できるかが、報酬の正当性を担保するからです。
現場では特に次のような工夫が重視されています。
1.公開ベンチマーク(再現可能で説明可能)
2.多次元評価(精度・速度・コスト・ロバスト性)
3.評価器のメタ評価(評価そのものを検証・改善)
4.ドリフト監視(データや行動分布の変化に対応)
つまり、“測れるものが、最適化される”というMLの原理を、ネットワーク全体の運営にまで拡張するイメージです。
倫理と透明性——“見える化”が信頼をつくる
AIの社会実装においては、透明性・追跡可能性・説明可能性が常に問われます。テンソルはこの点で、コード・データ・評価・報酬が原則オープンであり、改良履歴や貢献履歴も検証可能です。
つまり、閉鎖的な「信じてください」モデルではなく、「見て、確かめて、改善してください」モデルへの転換です。これは、社会的合意形成にかかるコストを引き下げるうえでも大きな意味を持ちます。
産業応用の射程——ヘルスケア、科学、宇宙、量子へ
登壇者は、今後1年の展望としてヘルスケアやサイエンス領域でテンソル的アプローチが進展すると予測しています。
具体的には、次のような応用が想定されます。
・出自証明(Proof of Origin)やデータ真正性の担保
・分散臨床評価や診断支援モデルの継続的最適化
・衛星データ解析や気象予測など、高頻度・高分解能タスクの報酬化
これらは、高信頼・高コスト・高頻度更新という条件が揃う領域であり、分散型の最適化ネットワークが特に力を発揮しやすい分野といえます。
実務者向けチェックリスト——明日から使える導入・運営の勘所
① 価値関数の明文化
・何を“良さ”とみなすのか(精度・速度・コスト・説明可能性・耐故障性など)を定量化する。
・事業KPI(収益・転換率・支持率)と連動する指標を用意する。
② 評価パイプラインの自動化
・提出 → 検証 → 再現 → スコア → 報酬をフル自動化する。
・悪用対策(データ漏えい・リーク・ジャッジ回避技法)を組み込む。
③ 報酬設計の“傾斜”
・上位貢献者への逓増報酬
・長期運用の維持報酬
・多様性確保の探索報酬
これらのバランスを設計する。
④ オープンソース方針
どこまで公開し、どこを秘匿するかを方針化する。
(例:評価器は公開、学習重みは遅延公開など)
⑤ コスト最適化
・分散リソース(サブネット)の価格性能比を継続的に監視する。
・「安価な計算 × 高性能エージェント」の組み合わせを常に更新する。
⑥ コミュニティ運営
・改善提案のレビューSLAを定義する。
・フィードバックの可視化や、ランキング・称号などの社会的報酬を整備する。
⑦ リスク管理
・規制・ライセンス・個人情報・バイアス・再現性に関するポリシー文書を整備する。
・監査ログと事故対応手順を標準化する。
誰が得をするのか——人材・企業・社会それぞれのメリット
個人開発者
・場所・所属・経歴に縛られず、“成果に正直な報酬”を獲得できる。
・最適化スキルを即金で証明でき、“世界標準の履歴書”として機能する。
企業
・外部最適化を高速に取り込むことで、内製チームの限界を突破できる。
・R&Dを可変費化し、失敗コストを逓減できる。
社会
透明な評価と配分により、知の公共財化と分散イノベーションが加速する。
よくある誤解と反論への答え
Q1. 「分散は遅い・非効率では?」
A. 評価と配分を自動化し、並列探索で改善速度を積み上げることで、単一組織の最大速度を上回るケースが出ています。テンソルは「最適解が継続的に流入する構造」を持つため、結果的にネットワーク全体の総合速度が勝る局面が増えています。
Q2. 「オープンにしたら全部タダ乗りされるのでは?」
A. インセンティブ層が継続改善に報酬を払い続けるため、タダ乗りするよりも“上書き改善で勝つ”動機が強く働きます。その結果、透明な競争が実用価値の増加を促進します。
Q3. 「トークン価格次第で揺らぐのでは?」
A. 登壇者は価格イベントよりも、実用メトリクス(性能・速度・コスト・採用)を重視します。価値創出が継続すれば、トークンはあくまで配分媒体としての安定性を長期的に高めていく、という立場です。
ロードマップの核心——“つながるサブネット”がプロダクトを作る
今後は、計算供給系サブネット、エージェント最適化サブネット、データ評価サブネットなどが縦横に連結し、そこから“エコシステムとしての製品”が生まれていきます。
利用者の目に映るのは、高速で安価、しかも高性能なAI体験です。その裏側では、インセンティブ層が自律的に運転されており、最適化が常時進んでいます。
この段階に至れば、ユーザーはもはやブロックチェーンを意識することはありません。ただ単に、「良いAIサービス」を利用するだけになるのです。
まとめ——“名前のための技術”から“回すためのインフラ”へ
テンソルの核心は、「測って、報いる」というMLと市場の原理をネットワーク全体に拡張した点にあります。
・MLの誤差伝搬 → 人類の報酬伝搬
・中央集権R&D → 分散最適化R&D
・善意のOSS → 報酬を組み込んだOSS+市場
こうしてAIの開発・運用は、“名前のための技術”から“回すためのインフラ”へと移行します。焦点となるのは、価格イベントやバズワードではなく、性能・コスト・体験の改善速度です。
テンソルはその速度を、世界規模の並列最適化によって最大化しようとしています。