大学は誰のための場所なのでしょうか。政治的な圧力や資金によるコントロールが強まるなかで、学問の自由は今も本当に守られているのでしょうか。2025年のアメリカで起きている出来事は、過去の歴史と重なり合いながら、世界中の研究環境にも静かに影響を広げ始めています。
序章|「学問の自由」をめぐる綱引きの系譜と、いま再び揺らぐ米国学術界
米国政府が大学に政治的な圧力をかけるのは、2025年のトランプ政権が初めてではありません。1950年代の“赤狩り”の時代には、連邦議会(HUAC)や各州が共産主義の排除を掲げ、大学教員に忠誠を誓うよう強制しました。カリフォルニア大学バークレー校では約30名がこれを拒否したことで解雇され、のちに最高裁でその処分は違憲とされましたが、学術界には深い傷が残りました。
それから約15年後、カリフォルニア州知事に就任したロナルド・レーガンは「キャンパスの無法状態を終わらせる」と公約に掲げ、バークレーで起きたフリースピーチ運動やPeople’s Park抗議に対し、州兵や警察を投入。さらに大学予算の削減をちらつかせながら、大学への政治的な介入を強めた結果、“学問の自由”は再び揺らぐことになります。
そして2025年、トランプ政権は連邦助成金の凍結をてこに、大学での特定の政治的発言を抑えようとする動きを強めています。コロンビア大学への資金停止やハーバード大学への圧力は、赤狩りやレーガン期に見られた「政府 対 学術界」の構図を再び想起させ、研究者たちに「国外へ出る自由」を現実的な選択肢として意識させるきっかけとなっています。
本稿では、こうした歴史的な背景を踏まえながら、アメリカ発の研究者流出が世界の研究開発地図にどのような変化をもたらすのかを考察していきます。
助成金ショック|資金調達モデルの急転換
これまで米国の大学は、研究費の6~7割を連邦政府からの助成金に頼ってきました。しかしその前提が、今まさに崩れようとしています。助成金が凍結されるという“資金ショック”に直面した大学がまず考えるのは、エンダウメント(寄付基金)の取り崩しです。
ところが、例えばハーバード大学では、寄付金の8割以上が奨学金や特定部門の支援など使い道があらかじめ決められており、自由に使える資金が限られています。プリンストン大学でも、公共政策大学院向けに設立されたロバートソン基金を「目的外」に使ったとして、寄付者側が訴訟を起こし、最終的に1億ドルを返還するという和解に至った例がありました。このように、エンダウメントの多くは“お金があっても自由に使えない”資金であるため、研究費の穴埋めには即効性がありません。
こうした事情から、大学は次の手段として資産の売却や社債の発行に動いています。例えばハーバード大学は2025年5月、約10億ドル分のプライベートエクイティ(未公開株)を投資会社レキシントン・パートナーズに売却する交渉を始めたと報じられました。同じ週には、イェール大学も同様の持ち株売却を検討しているとの報道があり、スタンフォード大学やプリンストン大学も社債発行の方針を示しています。
問題は、こうした資産の売却先や資金の運用を委託している相手が、ほとんど同じ顔ぶれに偏っていることです。多くの大学は、エンダウメントの上場株運用をブラックロック、バンガード、ステートストリートといった“ビッグ3”に集中させており、未公開株の売却もレキシントンやアーダイヤンといった大手に依存しています。この状況で、複数の大学が一斉に似たような資産を市場に出せば、買い手が間に合わず、瞬間的に供給過多が発生。株価やファンドの評価額が一時的に下落するリスクが生じます。
さらに、大学が保有する未公開株の売却が加速すれば、バリュエーション(企業評価)が圧縮され、IT分野のグロース株にも影響が及ぶ可能性があります。実際、S&P500上位50銘柄の中には、大学ファンドが3%前後の株式を保有している企業もあり、大量売却のタイミング次第では、金融市場の短期的な不安定要因となることがゴールドマン・サックスの分析でも指摘されています。
つまり――
🔹 大学基金の多くは「用途が限定されていて自由に動かせない」
🔹 現金化を急げば、売却先が同じになり市場に一気に資産が流れ込む
🔹 結果として、株価やファンド価格の“短期的ショック”が起こりやすくなる
この「助成金ショック」は、大学の財政だけでなく、金融市場にまで波紋を広げているのです。
研究者の揺れるキャリアパス|“出る自由”と“残る不安”
米国国立科学財団(NSF)の試算によると、今年度だけでおよそ9,000人の研究者が、米国外の研究ポジションへの応募を検討しているといいます。中でも、若手の博士研究員たちは、ビザの更新や研究テーマの自由度が左右されるため、政治の安定性を重視する傾向が強くなっています。これまで続いてきた「アメリカが最も魅力的な研究拠点」という神話は、今、揺らぎ始めているのです。
EUの攻勢|500億円超を投じる“Choose Europe for Science”
このような動きをチャンスと捉えたEUは、研究者の受け入れを強化しています。フォンデアライエン欧州委員長は、2025年から2027年にかけて総額5億ユーロ(約770億円)規模の「研究者移籍支援プログラム」を立ち上げました。渡航費や家族の帯同費用、研究を始めるための初期資金まで幅広くカバーし、特にERC(欧州研究会議)グラントを受けた経験のあるアメリカ在籍の研究者約1,500人を主要な誘致対象としています。
各国の追随|フランス・ドイツ・北欧の誘致合戦
フランスはマクロン大統領の主導で、ヘルスケアAIや量子技術といった先端分野に追加で1億ユーロを投じ、「テニュア(終身在職権)をすぐに付与し、年俸も1.5倍にする」という破格の条件を提示しています。ドイツは、すでにある優秀な研究拠点支援制度“Cluster of Excellence”をさらに拡充。一方、ノルウェーやデンマークは炭素税の収入を活用し、環境分野の研究支援“Green R&D”を新たに設けるなど、各国が連携してアメリカの研究資金の空白を埋めようとしています。
“GAFAMパイプライン”の細りと国際共同研究ネットワークの再編
アメリカのビッグテック企業はこれまで、大学との人材の行き来によって競争力を高めてきました。しかし、博士号を持つ人材の新規採用は減少傾向にあり、2021年には16%だった採用比率が、2024年には11%にまで落ち込みました。今年はさらに、ひと桁台に下がる可能性も指摘されています。
生成AIや量子コンピュータ、バイオITといった最先端分野での研究開発にかかるコストが増している中、企業側はスタートアップの買収や海外の研究拠点拡大によって、社内の研究力を補おうとしています。米国の特許出願数の伸びも鈍化が予測されており、長年信じられてきた「シリコンバレーがイノベーションの中心」という構図にも変化の兆しが見え始めています。
かつてアメリカが主導していた大型の国際共同研究プロジェクトも、資金の出どころが多様化する中で「多極分散型」の体制へと移行しつつあります。たとえば、EUが中心となるプロジェクトにアメリカ・中国・日本が一部参加する形や、アジア諸国が主導する量子通信網など、新しい国際協力の枠組みが次々に提案され始めています。
まとめ
助成金という“資金のコントロール権”を握るワシントンの内向きな政策は、アメリカ国内の大学に動揺をもたらすと同時に、世界中で研究者の移動を加速させるきっかけとなりました。EUは迅速な資金投入によって受け入れ先としての存在感を高め、中国や日本も制度や予算を活用して、海外からの優秀な研究者を引き寄せようとしています。
もしアメリカが、学問の自由や開かれた研究環境を維持できなければ、これまで築いてきたイノベーションにおける優位性が、じわじわと失われていくかもしれません。一方で各国にとっては、国際的な人材を確保する絶好のチャンスが巡ってきたともいえるでしょう。