徳川家康 変化に強く、ベストな判断を迅速に

徳川家康のリーダーシップから学ぶ:変化に強く、ベストな判断を迅速に

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人の上に立つ役割を担う人物は、重大な責任を伴う意思決定や組織運営に関わる機会が多く、軽率に失敗する余地がないことは、多くの人が理解しています。

こうした立場にあっても成功の可能性を高めるためには、過去の偉人たちの業績や考え方から現代でも通用する原則を学んでみることも有益かもしれません。

この記事では、日本で最も大きな成功を収めた武士としても知られる徳川家康の経歴を振り返りつつ、彼の生い立ちやリーダーシップから、現代にも適用できる組織運営の方法を探っていきましょう。

徳川家康の概要

葵の紋が雲の中にある様子

徳川家康は16世紀半ばから17世紀にかけて活躍した、日本の武将の一人です。彼は室町時代後期から江戸時代初期にかけての時代に重要な役割を果たしました。

戦国時代において織田信長や豊臣秀吉といった歴史的な武将と良好な関係を築きながら領土を拡大し、関ヶ原の戦いに勝利することで、日本統一と江戸幕府の成立に寄与し、今日の日本の礎となる時代を切り開きました。

幕府は将軍の本拠地であり、将軍が中心になって統治を行い、一方で各地の大名は「藩」と呼ばれる地域ごとの支配体制を確立しました。この幕府と藩による体制は幕藩体制として知られ、効率的な統治手法として現代にも語り継がれています。

江戸幕府は徳川家康によって創設され、その後264年間にわたって続く武士を中心とした絶対的な支配体制を築きました。この時期はかつてない安定期であり、高度な日本文化の発展やインフラの整備などが進みました。

徳川家康の生い立ち

子供の頃の家康の銅像

徳川家康は1543年、現在の愛知県にあたる三河国の岡崎城で生まれました。幼少期には竹千代という名前が与えられており、3歳の頃には母と生き別れになるなど、戦国時代の不安定な状況による苦難な過去を持ちます。

竹千代が6歳になると、岡崎城の城主であり父でもある松平広忠によって、同盟関係にあった今川氏へ人質として駿府に送られることになりました。しかし、護送される途中で義母の父の裏切りに遭い、今川義元と敵対する織田信秀の元に引き渡され、その後尾張国(現在の静岡県に位置する地域)熱田の加藤順盛の屋敷で人質として育てられることになりました。

その2年後、松平広忠が亡くなると、今川氏は竹千代を人質交換で取り戻し、以後、元康が初陣を飾るまでの間、今川氏の元で育てられることになりました。

竹千代は14歳の頃、今川義元の下で元服(成人の儀)を行い、次郎三郎元信と名乗り「元」という字が与えられました。これによって、竹千代は再び今川義元の配下としての地位を確立しました。しかしながら、その1年後には祖父である松平清康の名前の一字を取って名前を元康と改めました。

元康が初陣を経験したのは、三河国で当時起きていた大規模な反乱の鎮圧の任務でした。彼の戦功には城下を焼くなどの戦果が含まれ、これが評価されて今川氏から元康に旧領の一部が返還されたり、腰刀が贈られたりするなどの褒美が与えられました。

全国平定から晩年に至るまで

日光東照宮の門の龍

1560年、桶狭間の戦いにおいて先鋒を任された元康は、織田軍の包囲を辛くも突破し、引き上げに成功しました。しかし、その後今川義元は織田信長に討たれ、これを機に今川家からの独立を果たそうと画策したと言われます。

織田軍の勢いはその後も衰えを知らず、元康は室町幕府との関係強化によって勢力の均衡を維持しようと努めましたが、決定的な勝機を見出すことはできませんでした。1561年、元康は織田信長との和睦を結び、清州同盟を結成して両者の共通の敵である今川氏と戦いました。

1563年には今川氏から送られた「元」の字を名乗りに加え、「家康」と名乗るようになりました。その後朝廷からも「徳川」の苗字が贈られ、この時期に徳川家康の名前が完成したと言えるでしょう。

1582年の本能寺の変にて織田信長が明智光秀に討たれると、織田との関係が深かった徳川は一時的には立場とともに精神も危うくなりました。しかし、豊臣秀吉による明智討伐や全国平定に向けた動きに合わせ、豊臣政権の臣下として全国平定に大きく協力していきました。

全国の平定を果たし、関白となった豊臣秀吉に次ぐ最高位の権力者となった家康は、秀吉の生前および死後、各地の大名との関係を深めながら権力の地盤固めに注力しました。

1600年には西軍、石田三成との決戦を関ヶ原の戦いで制し、事実上全国を平定。文字通り天下人としての地位を確立し、豊臣家が有していた征夷大将軍の地位を受け継ぎ、現在の東京にあたる江戸に幕府を開きました。

江戸幕府を開くに際し、家康は幕府の制度整備や財源確保に向けた人員配置や各地の大名との連絡に尽力し、江戸幕府の基盤を築き上げました。同時に、イギリスやオランダなどのヨーロッパ各国との交流にも注力し、商館の開設を早期から進めていたことでも知られています。

晩年、家康は江戸幕府に対して反感を抱いていた豊臣家の脅威を排除すべく、大坂城を包囲し大坂冬の陣・夏の陣を経て、豊臣家を滅ぼしました。

大坂の陣の2年後である1616年、家康は鷹狩りに出かけた先で病に倒れ、75歳で生涯の幕を閉じました。

リーダーとしての徳川家康の姿

家康が馬に乗っている銅像

長きにわたる江戸幕府の礎を築いた徳川家康ですが、彼の功績はそこに至るまでのプロセスにあります。

注目したいのは、やはり家康が発揮した「じっくりと機会をうかがう力」です。幼い頃から人質として親元を離れさせられるなど、家康は「仁義」や「忠義」といった侍の美徳よりも常に合理的な判断を重んじてきたことが、彼にとって重要な要素であったと言えるでしょう。

少年期から青年期にかけて、彼は配下として優秀な活躍を見せましたが、彼を評価していたのは自身の実父から接収した領地を有する今川義元でした。

褒美として授けられた領地も元は彼の父の所有物であり、自分の所有物でもあったわけですから、「なぜ自分のものを褒美としてもらわねばならないのだろう」という至極真っ当な疑問が、彼の中にあったことは想像に難くないでしょう。

人情に過度にとらわれない家康が俯瞰的かつ合理的な判断を彼の信条として決定的なものとしたのは、本能寺の変です。

織田信長が討たれたのならば次は自分という状況の中で、頼れる臣下もおらず心許ない状況で逃げるように自陣へと帰りながら、家康は自分の戦乱の世の中での生き残り方について、これ以上ないほどに熟考したのではないでしょうか。

その後、秀吉の全国平定に従いながら自身の仕事を果たし、同時に各地の大名との関係構築にも力を注ぎ、奢ることなくあらゆる脅威を迅速に察知できる体制づくりを進めました。

関ヶ原の戦いにおいても当初は不利とされていた家康ですが、敵軍にいた小早川の軍勢を自軍に引き入れ、決戦を勝利で収めることに成功しています。多くの裏切りや情勢の急激な変化にも対応できるためには、多くの人間と関係を持ち、有利な状況を常に創り出せる仕組みづくりが重要であると気づいていたからこそ、成し遂げた成果と言えるでしょう。

江戸幕府を開いた後も、家康は幕府の安定化に向けた人材配置や財源確保を進めました。家康の徹底的なゼロリスク思考は、かつて世話になっていた豊臣家が相手であっても容赦せず、江戸幕府への降伏を頑なに拒否していたことを理由に、大坂の陣において同家を滅ぼしました。

人情に左右されず、大きな利益や大義のために意思決定ができる姿勢は、現代人も学ぶべき価値ある考え方と言えるでしょう。

現代人は徳川家康から何を学べるのか

日の丸に信長、秀吉、家康のイラストがある様子

織田信長が餅をつき、豊臣秀吉が餅をこね、できた餅を徳川家康が食べたということわざもある通り、徳川家康から現代人が学べるのは、やはりその動向を鋭敏に察知し、最適なタイミングで行動する柔軟さにあります。

変化が激しく自分の命や領地が内外から狙われている戦乱の世において、どっしりと構えて時期をうかがうことは、常人には難しく、多くの武将たちがそのような我慢強さを持ち合わせていなかったことから、あっけなく散っていたことは想像に難くありません。

家康自身も多くの苦難や戦災に見舞われてきた以上、戦乱の世の中の恐ろしさは十分に理解していたはずですが、それでも自身の意思決定能力を信じ、実行できたことが全国平定、そして現代の日本のありようをもたらしてくれました。

また、徳川家康は戦場で武勲を立てたことよりも、むしろ争いに至るまでの外交努力の中で成果を収めてきた人物であることも忘れてはいけません。力で相手をねじ伏せるのではなく、俯瞰的にお互いの状況を把握・説明しながら、ケースバイケースで柔軟に同盟や和睦を結び、常に有利な状況を形成してきました。

また、本能寺の変などで臣下の裏切りを間近で見てきた経験から、部下に対しても丁寧に接してきたという話もあります。関ヶ原の戦いで石田三成に加勢していた西軍の諸侯に対しても、手当たり次第に滅亡させるようなことはせず、慈悲をもって分相応の領地を全国平定時に分け与えたという話です。

かつて同盟関係にあった織田信長は、君主としての才能に長けていた一方、その残忍な性格から周囲の不信を買っていたことも、家康は知っていたことでしょう。力でねじ伏せるには限界があり、懐柔によって全国を統一する方法があることを体現した将軍でした。

まとめ

青空に雪をいただいた富士山の写真

今回は、徳川家康の生い立ちや戦乱の世で発揮したリーダーシップや意思決定、そして現代人が学べる徳川家康の姿について解説しました。

江戸幕府の基礎を築いた徳川家康ですが、そこに至るまでの道は険しく、幸運に導かれて全国平定にたどり着いたと言っても過言ではありません。しかし、家康が窮地を幾度となくしのげた背景には常に彼の器量や冷静な判断能力があり、機を待つ力が組織を成功に導いてきました。

現代は戦国時代のような極端な環境ではないため、当時のような極端な意思決定が求められることはありませんが、時折家康の姿を思い出し、日々の意思決定や人との接し方の参考にしてみるのも良いかもしれません。

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